宮内勝典 南風 (1979年) 河出書房新社
1979年、文藝賞受賞作。著者の近年の作品を窺うと、オウム真理教事件や9.11テロ事件などを取り扱った、社会問題を取り上げた作品が目立ちます。
この「南風」は著者における最初期の作品になります。舞台は戦後間もない鹿児島南端の港町です。一読しての感想は、物語自体としてはそれ程起伏の激しいものではありませんが、漁師独特の気迫ある言動・町全体に広がる賑やかで自由奔放な雰囲気・「海」と「陸」との微妙な空間的描写が特徴として挙げられます。これらの描写は、著者の時代背景対する深い探求心と、卓越した文章表現力があるからこそ可能となったのだろうと思います。そして、この時代背景に対する関心こそが、近年にみられる社会問題に対する関心へとつながっているのではないでしょうか。
これからも、研究心をもって、著者の作品を読んでいきたいと思っています。
![]() | 侏儒の言葉・文芸的な、余りに文芸的な (岩波文庫) (2003/02) 芥川 竜之介 商品詳細を見る |
「打ち下ろすハンマアのリズムを聞け」―芸術の永遠に滅びざることをこう表現した芥川は、死の前の4年間アフォリズムの刃を研ぎ澄まし「侏儒の言葉」を書きついだ。一方、谷崎潤一郎との二度の論争に底深く覗いた「文芸上の極北」とは何であったか。最晩年の箴言集と評論集。
図書館で何気なく借りてきました。
箴言、アフォリズムを集めた本。なかなか楽しいときを過ごせました。
適当に例を挙げると、
危険思想
危険思想とは常識を実行に移そうとする思想である。
悲劇
悲劇とはみずから羞ずる所業を敢てしなければならぬことである。この故に万人に共通する悲劇は排泄作用を行うことである。
可能
我我はしたいことの出来るものではない。ただ出来ることをするものである。これは我我個人ばかりではない。我我の社会も同じことである。恐らくは神も希望通りにこの世界を造ることは出来なかったであろう。
世間智
消火は放火ほど容易ではない。こういう世間智の代表的所有者は確かに「ベル・アミ」の主人公であろう。彼は恋人をつくる時にもちゃんともう絶縁することを考えている。
或仕合せ者
彼は誰よりも単純だった。
或夜の感想
眠りは死よりも愉快である。少くとも容易には違いあるまい。
などなど……。
読んでいて感じたのは芥川竜之介は純粋なんだなということと、純粋を志向して生きるためには複雑にならざるをえないということでした。その複雑な内面をこうして短い言葉で、しかも文藝春秋の誌上に定期的に載せていたというのは大変なことだったと思います。
後半の評論には当時の文壇のことも触れられていて、特に志賀直哉の項は私が好きな作家だけにとても興味深く読めました。
(一)志賀直哉氏の作品は何よりも先にこの人生を立派に生きている作家の作品である。
(二)志賀直哉氏は描写の上には空想を頼まないリアリストである。
(三)しかし描写上のリアリズムは必しも志賀直哉氏に限ったことではない。同氏はこのリアリズムに東洋的伝統の上に立った詩的精神を流しこんでいる。
(四)更にまたやはり作家たる僕は志賀直哉氏のテクニイクにも注意を怠らない一人である。「暗夜行路」の後篇はこの同氏のテクニイクの上にも一進歩を遂げているものであろう。
文学フリマを終えて一週間経ちました。とんび出版という一創作団体に加入しながらも、小説なるものを一作品もかけていなかった私にとって、今回の経験は自分の世界観を大きく揺るがすものとなりました。このことは、決して大げさな言い方ではありません。このような経験を与えてくれた同メンバーに対して改めて感謝の意を表します。
今回、創作するにあたって感じたことは、創ることというのは「仮想」と「現実」との行き来であるということです。
人間は何かを創るときに、頭のなかで仮想する。しかし、その仮想というのは、現実があって、その現実を基盤としたものである。そのような意味で、現実と仮想とは相即不離なものである。しかし、よく考えてみると、このことは小説をかくことであるとか作曲するとかいうことだけの問題ではありません。人間は普段生活する中で、常に仮想と現実との行き来をしているのだと思います。では、一体、現実と区別される「仮想」とは何なのか。このような疑問をきっかけに、まず手に取ってみた本が茂木さんの本です。
![]() | 脳と仮想 (新潮文庫 も 31-2) (2007/03) 茂木 健一郎 商品詳細を見る |
2005年度、小林秀雄賞を受賞したこの本は、脳科学において数値化できない微妙な質感を「クオリア」と名付け、それを一貫したテーマとしています。物質である脳に対する心の領域を示すクオリアこそが仮想の代名詞となるとしています。
「私たちが世界について考える時、本質的な要素として立ち上がってくるものは、必ず世界のどこにもない仮想である。「真理」は世界のどこかにある客観的存在では断じてない」
と述べています。つまり、仮想が精神の中枢となっているということでしょう。ですから、この本において、科学で数値化できる「現実」というのは、「仮想」から生まれるものであるとされています。
この論理でいくと、我々が常に自覚している「現実」のみに価値を見出だすのはおかしいということになります。仮想にこそ真の価値・生の全体性を見出すことができる。これが著者をして「仮想を生きる」と言わしめた所以でしょう。
著者は仮想の価値を主張するにあたって、夏目漱石の作品や『源氏物語』・『たけくらべ』などの文学作品からテレビゲームに関することまで、様々な視点から追究しています。まだまだ文学の可能性を軽んずるべきではない。私にとって、そう思える本となりました。ただ、このクオリアまでをも数量化するような天才が現れてしまうと話は別ですが・・・。
近頃、良い棚づくりをするべくいつも悶々としています。コーナーで展開する次のフェアに向けて選書しているのですが、これいいやん!と思って出版社に電注すると、そういうのに限ってことごとく品切れ……。はい、確かにね、こんな本置いてる本屋見たことない。でも、へこみます。なんだか、もう……何点か先走って注文しちゃってるから早く全部決めないといかんのですが。たまに頭の中がごっちゃになって、テーマとは逸れているはずのキノコ図鑑(しかも大判)を注文しそうになっています。違う!だめだだめだー!それは自分の趣味だー!スタッフに本屋ベテランの方が多いので、アドバイスをもらえて助かります。がんばっていいフェアにしたいです。
「…月四千ペソ」。新聞広告にひかれてドンセーレス街を訪ねた青年フェリーペが、永遠に現在を生きるコンスエロ夫人のなかに迷い込む、幽冥界神話「アウラ」。ヨーロッパ文明との遍歴からメキシコへの逃れようのない回帰を兄妹の愛に重ねて描く「純な魂」。メキシコの代表的作家フエンテス(1928‐)が、不気味で幻想的な世界を作りあげる。
ひさしぶりの読書日記。
表題作がなかなか秀逸でした。
書き出しから着地点まで一直線のようでいて一捻りしてまったくの別物に、あるいは脈絡のない断片の羅列のように見えてきっちり芯が通っているとでもいいましょうか。あのへん(土地)の作家の作品は読んでいて楽しいですね。私はコルタサルがけっこう好きだったりするんですが、コルタサルの南部高速道路、あれもはじめて読んだとき衝撃を受けました。日常を描写しつつも読者が意識しないうちに流れる時間が変速されていく。季節が一巡りするまで渋滞にはまり続けるなんてアイデアを形にする根性が素晴らしいと思います。
他サークルさんとの交流、来場した方々との対面での会話、色々と刺激になりました。
そして、文学フリマを開催してくださった事務局の方々。素晴らしいイベントをありがとうございました。
京都からの一泊二日という強行軍(マンキツ泊)というせいもあって、今回は設営や撤収作業に参加出来ませんでしたが、次の機会にはちゃんとホテルとって余裕をもって望みたいと思います。
他サークルさんの出品や来場者の動きを見ていて、どのようなものが求められているのかおぼろげながらニーズも知る事が出来ました。
次回もし参加する事が出来たら、よりパワーアップした作品を出品したいと思いますのでお付き合いよろしくお願いいたします。
http://d.hatena.ne.jp/jugoya/20080511

オレンジの表紙が目印のこちらの冊子を持っていきます。
内容は、
満天スモッグ 「最上級の感覚」
原想一郎 「機械」
大山三ダース 「ゆめのこども」
の短篇小説三本です。
アキバ行ったついでにでもお越しください。





























































